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「丹波篠山いのうえ黒豆農園」は様々な所で愛されています。 現在の飽食社会の中で、随分と食生活を含めて考え方も変わってまいりました。当園では近代的なものは一切ございませんが、昔からある田舎の産物を心をこめてお贈りしていきたいと思います。 |
丹波黒概説1. 丹波黒とは!?その品種の由来と命名について 1. 丹波黒とは!?その品種の由来と命名について[ 命 名 ]丹波黒は、兵庫県農事試験場が古くから丹波地方で栽培されていた黒大豆の在来種(波部黒)を取り寄せ、明石本場と但馬分場で品種特性の把握の比較試験を行い、1941年(昭和16年)に「丹波黒」と命名し、奨励品種にした品種名である。 ※ここでの「丹波黒」は品種名をさしています。黒豆、丹波黒大豆、丹波黒と呼んでいるのは、丹波の在来品種(波部黒)です。正真正銘の丹波黒です。
1948年「豆類」について書記兵庫県において、同県多紀郡地方の川北在来および波部黒在来にたいし、丹波黒と命名したものである。
2. 丹波黒大豆の発達の記録記録にみる発達史丹波の黒大豆の栽培歴史は、寛西11年(1797)の丹波国大絵図に、丹波国名産として「黒大豆」が記載されているから、栽培の起源はもっと古い。丹波国は現在の兵庫県多紀郡(篠山市)、氷上郡から京都府北桑田郡に至る地域である。
お国自慢 丹波ささやま「川北黒大豆が全国に名声を博した理由は、丹波篠山藩主時代は篠山川の上八幡淵より川北のエベヌ淵まで殺生禁断の場所であったが、時の藩主松平公が多くの家来を引き連れ川北に狩に来られた時、庄屋の山本彌三郎邸に昼食せられ、その折庄屋宅にて黒大豆を差し上げたところ、その味格別にて大変御意に入り、それ以来川北の年貢米の内十石は黒大豆にて納め、青山公の末期まで続けていた。 松平公は川北黒大豆の独特の味を賞で時の将軍に献上したので、将軍におかれてもその風味を賞し、直参はもとより数多の家臣に振舞われたので、その独特の味が江戸中言い伝えられ、気の早い商人は店頭に丹波川北黒大豆と書きたてるように」なったと書かれている。
丹波黒品種の礎江戸時代の後期から明治時代にかけて、日置村(現在の篠山市日置)の豪農大庄屋の波部六兵衛と継嗣波部本次郎によって、優良な黒大豆の種が作られ、「波部黒」と名付けて奨励し、今日の丹波黒の礎ができた。 ■川北黒大豆の言い伝え 昔旅僧が病気で苦しんでいるのを庄屋が助け、家で養生させていた。ところがその年は大干魃で、村の人は他所の僧を村に入れたためだといって、追い出し策を考え白大豆を煎って黒くし、これを植えて芽が出たら村に置くと、難題をもちかけた。僧は七日の猶予をたのみ、一粒一粒とまいていった。それが不思議に八日目に芽を出し、秋には黒大豆が実った。それが川北大豆であるという。
明治はじめに波部本次郎の原原種を選んでの採取は、米麦の原種栽培体系の制度が大正5年(1961)米麦品種改良奨励規則の公布からの、大豆は昭和28年(1954)からであるので、特筆すべき事例なのである。
川北黒大豆は、江戸幕府への献納によって、波部黒は宮内省お買い上げによって一層声価が高まった。
名声が高まると、「川北大豆」「波部黒大豆」という名称が支障になり、昭和9年に至り、郡農会の斡旋により「丹波黒大豆生産出荷組合」を組織して「丹波黒大豆」と統一して今日に至る。
その後1941年に兵庫県農事試験場が丹波地方で栽培された「波部黒」をとりよせ、品種特性の比較試験を行い「丹波黒」と命名し、奨励品種とした。丹波黒の種子を普及するために委託採種圃を設置し、同年4月に兵庫県報に価格等統制令に基づき丹波黒の種子販売価格「一石当たり80円」と告示した。(その年の生産者米価は一石当たり49円)
■生産量
そうそうっ!ちなみに一反(田んぼの尺度を表す)で、枝豆時に収穫できるのが800kgです。作物自体の枝を含めば1トンはゆうに超える量です。
3. 黒大豆は体によい昔から、黒大豆が体に良いことはよく知られてきた。咳がでたり、のどが痛いときなど黒大豆の煮汁を飲むと良いと教えられてきた。
また、江戸時代前期に出た寺島良安によるわが国最初の百科辞典「和漢三才図会」(生徳2年、1712)にも、黒大豆の効能について記されている。
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